狼少女「アマラとカマラ」はいなかった! 暴かれた真相と人々を魅了した教育的魅惑
昭和の時代、少年少女がどっぷり浸かった怪しげなあれこれを、“懐かしがり屋”ライターの初見健一が回想する。 今回は、”キョウイク”テキストとなった「狼少女」についての後編。
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1970年代に巻き起こったオカルトブームのパイオニア、南山宏の肖像に迫る!
そんな生活の中で、南山少年の慰めとなったのがSF小説だった。
中学時代から渡辺啓助や江戸川乱歩の推理小説、南洋一郎の冒険小説や海野十三のSF小説などを中心にさまざまな書物を乱読していたが、本格的にSFに興味をもったのは、高校時代に読んだ手塚治虫の漫画が原因だった。
当時発行されていた「漫画少年」という雑誌には、手塚本人が漫画の描き方を教える「漫画教室」を連載しており、南山少年もこれを読んで、わら半紙に自分の漫画を書き投稿をはじめた。
「漫画少年」は、1947(昭和22)年12月から1955(昭和30)年10月にかけて学童社から月刊で発行されていた日本の漫画雑誌で、創刊3号から漫画の投稿コーナーを設けて、入選した作品の作者やレベルの高い投稿者の名前を掲載していたのだ。
しかし、手塚の漫画に衝撃を受けて「漫画少年」に投稿していたのは、南山少年だけではなかった。全国の大勢の漫画少年たちがこぞって、将来のプロの漫画家を夢見てこの雑誌に投稿していたのだ。こうした常連の投稿者には、石ノ森章太郎や藤子不二雄、赤塚不二夫など、後日トキワ荘に集って日本の漫画界を牽引した人物もおり、彼らはほとんど毎回のようにその名が「漫画少年」に掲載されていた。
南山少年も、一度その作品が「漫画少年」に掲載されたようだが、当時毎号のように名前や作品が掲載されていた小野寺章太郎(後の石ノ森章太郎)や寺田ヒロオ、山根赤鬼、青鬼兄弟の作品と比べると、とてもかなわないと観念し、漫画家の夢は早々に断念したらしい。
他方SF小説への関心は深まり、日本の作家が書いていた子供向け小説だけでは飽き足らなくなって、原語のペーパーバックを読みはじめた。このころはまだ父親が東京の養家を訪れていたようで、父親は東京に出るとお土産にトンカツと、古書店で買ったSF雑誌とを持ち帰ってくれた。父親はSFのことはわからなかったのだが、表紙を見ればそれとわかったという。
南山少年はこうした原書を、英語の辞書を引きながら読みふけった。実際には中身の3分の1も理解できなかったと述べるが、このような経験は、後に大量の記事や翻訳書を著す際に役に立ったのではないかと思われる。
また原語の小説を読むことは英語の勉強にもなり、本人も英語には多少自信があったようだ。しかし当時の家庭事情を考えると進学は難しいと考え、高校卒業時には大学は受験しなかった。ある人物から紹介されて郵便局の試験も受けたのだが、面接試験で支持政党を訊かれたとき「共産党」と答え、落とされたと述べている。


そんな南山少年に、地元の新聞に載ったある記事が衝撃を与えた。それは、友人のひとりが一橋大学に合格したことを紹介するものだった。当時は、田舎の人間が大学に合格すると地元紙に記事が載るような時代だったのだ。そして新聞に記事が掲載された友人は、小学校から高校までずっと学校が同じで、しかもその家庭は南山家よりも貧しかったのだ。
彼が大学に合格したのなら、自分も大学に行けるのではないか。発奮した南山少年はこの新聞記事を切り抜き、それを眺めながら猛勉強を始めた。
とはいえ、学費が高い私立大学はもとから念頭になく、国立大学を目指すことにした。こうして選んだのが、当時国立大学二期校だった東京外国語大学のドイツ語学科だった。
現在の大学入試制度では、国公立大学志望の受験生はおしなべて、まず大学入学共通テストを受ける必要があるが、1949(昭和24)年から1978(昭和53)年までは、国立大学と公立大学の入試日は別に設定され、国立大学も3月初旬に試験を行う一期校と、3月末に実施する二期校とに分かれていた。
一期校には旧帝国大学など歴史の古い名門が多く、二期校には旧制高等学校や旧制専門学校、師範学校などから戦後の新制度で新しく大学に指定された学校が多かった。
南山氏が受験した東京外国語大学も、1949年に東京外国語学校から新制大学に改組された学校で、二期校に分類されていた。
二期校の試験は一期校の合格発表後に行われるため、受験生の間には一期校の名門を第一志望とし、二期校を滑り止めとして受ける傾向も強かった。また、一期校に合格した受験生が二期校の試験を辞退する場合もあったから、二期校は一段低く見られる面もあった。とはいえ横浜国立大学や東京外国語大学などは、二期校とはいえ東京大学を第一志望とするような優秀な学生が大勢受験しており、二期校の中でも難関であった。
ドイツ語学科を選んだ理由は、人気のある英語学科やフランス語学科は40倍という高倍率だったのに対し、ドイツ語学科の倍率が20倍と低かったためだ。20倍という倍率も決して低いものではないが、猛勉強のかいもあって合格できた。



(月刊ムー 2024年11月号)
羽仁 礼
ノンフィクション作家。中東、魔術、占星術などを中心に幅広く執筆。
ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)創設会員、一般社団法人 超常現象情報研究センター主任研究員。
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